棲みつくもの

──音無 Fade

いつもなら、ベランダでコーヒーを片手に
遠くのビルをぼんやり眺めている時間だった。
でもその朝は、雨が静かに降っていた。

トーストをかじりながら新聞をめくっていると、
携帯が震えた。
無意識に取る。

「……はい」
『あ、もしもし』

少しだけ懐かしい声だった。
けれど、懐かしさは罪に似ている。

『昨日のこと、なんだけどさ――』
彼女は笑っていた。あの頃と変わらない調子で。

―――あたし、好きな人がいるんだよねぇ。

その言葉が、昨日の夜、確かに落ちていた。
たぶん僕に向けたものじゃなかった。
それでも少しだけ、嬉しかった。
自分がその誰かじゃないことに、気づいていたのに。

報いだ。
僕は誰かの好意を雑に扱って、
なのにまた、別の人を好きになった。
そんな資格、ないとわかってた。

なのに、どうしてこんなにも苦しかったんだろう。

いつもと同じ昼休み。
仕事に文句はない。でも心はずっと騒がしいままだった。

誰もいないはずの屋上。
そこに彼女がいた。

静かにページをめくっていた。
僕は隣に座った。何も言えなかった。

彼女が本を閉じたのは、
僕が何も言わなかったせいかもしれない。

「知ってる? 人の心の中には天使と悪魔がいるのよ」
その言葉は、誰かにというより、
自分に言い聞かせるような声音だった。

「どっちも自分のことしか考えてない。
 片方は愛を育みたいと願い、もう片方は快楽を求める。
 だから、どちらも否定しなくていい。
 でも――
 その選択に後悔しない覚悟があるなら、の話だけど」

それだけ言うと、彼女は風のように立ち去った。
僕は何も言えなかった。ただ、彼女の後ろ姿を目で追っていた。

あれから数日。
駅に向かう道すがら、彼女の姿を見つけた瞬間、
心臓が跳ねた。

まさか――そんな偶然あるわけない。
けれど、現実だった。
彼女が僕の腕を掴んで振り返ったその瞬間、
あの日の沈黙すら愛しく思えた。

無言のまま電車に乗り、
密着した体温と、微かな香り。
記憶をくすぐるその空気に、息を殺すしかなかった。

街を歩きながらも、
彼女は何も言わなかった。
ただ少し楽しげに、前を歩いていた。

交差点の前で信号を待つあいだ、
彼女がふと立ち止まる。
振り向いたその瞳に、
僕は言葉を失った。

そして――
そっと指先が頬に触れ、
続いて、唇が重なった。

ほんの一瞬の、
だけど永遠にも感じられた時間。

「キス、しちゃったね」

その笑顔は、
まるで天使の仮面をかぶった悪魔だった。

「ねぇ、知ってる? 人の心には天使と悪魔がいるのよ」
彼女は続けた。かすれた声で。

「あなたが好きなの。
 もし、あなたが私を好きじゃないなら――
 私はあなたの心に棲みつく。
 消えない夢みたいに。
 だって……あなたが好きなんですもの」

あの雨の日から、
何もかもが少しだけ歪んで見える。

彼女の声も、笑顔も、
まるで“後悔”が作った幻想のようで。

だけど、
確かに今も、どこかに“棲みついて”いる。

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