音を失くして

詩的短編集|音無 Fade」

誰にも届かなかった声を、ここに置いていく。

想の余熱

— 音無Fade — 想いを伝えたくて、 言葉を探していた。 予想よりも、 心はずっと複雑で、 でもそれを伝えるには、 簡単すぎる言葉しか持っていなかった。 回想にひたりながら、 湯気を見つめていた。 あなたの声が思い出せるうちは、 まだ少しだけ安心だった。 妄想だとわかっていても、 あの人が振り返る気がして、 背中を向けたまま歩いた。 発想の自由がほしいと願いながら、 感情はいつも 誰かに縛られ […]

声のいない場所

— 音無Fade — 声色を変えて 言えなかったことを なんとか伝えようとした。 残声だけが 部屋に残っていた。 姿も温度もないままに。 無声のほうが、 ときに真実を近くに置いていた。 音声では届かない感情を 目線で渡そうとした。 内声ばかりが、 夜になると騒がしくなる。 呼声が返ってくると思って、 何度もドアをノックした。 * 声色は、時間とともに 少しずつ、知らない色になっていた。 残声は、 […]

時のまわりで

— 音無Fade — 時雨にまぎれて、 ふと、名前を呼びたくなった。 隙時にふれた指先が、 まだ温度を忘れていない。 追時のように、 気持ちだけが少し遅れて届いた。 過時になってから、 どうしても言葉が間に合わなかったことに気づく。 今時の空気のなかで、 あの頃の私たちが、まだどこかで呼吸している。 静時―― 音が消えたあとにだけ、 ほんとうの意味が残る。 * 時雨はもう止んでいた。 けれど、心は […]

余の在処(よのありか)

— 音無Fade — 余白があるから、 言葉はまだ、置けると思った。 余韻が残るから、 会話の続きを感じてしまう。 余剰だったものを、 あのとき切り捨てたつもりだったのに、 いちばん残っているのは、 その余りものだった。 余計だったかもしれない。 でも、あのときの私には、あれが精一杯だった。 余波のように、 思い出のかけらが、いまも胸をかすめてくる 残余。 置いていったのではなく、 置かれてしまっ […]

記憶に溶けた毒

──音無 Fade 懐かしさは、罪に似ている。 あるいは罪か。 触れた瞬間に、もう戻れなくなる。 懐かしさは、記憶に溶けた毒。 甘くて、やさしくて、だけど決して無害ではない。 – 久しぶりに降りた、終点間近の小さな駅。 錆びた駅名標が変わらずにそこにあったことに、 少しだけ安堵してしまう自分がいた。 足元には濡れた落ち葉、 空気は冷えていて、懐かしさと後悔が入り混じる匂いがした。 通りの向こうに、 […]

音を失くして、守った言葉

──音無 Fade 音を失くして、守った言葉がある。 言ってしまえば壊れてしまいそうで、 だから私は、黙ったままうつむいた。 – 喫茶店「シルバー・ムーン」は、 都会の路地裏にひっそりと佇んでいた。 誰にも見つからないことを望むように、 少し古びたネオンを灯して。 タバコの煙とコーヒーの香りが混ざったあの店は、 かつて私が、何も語らなかった時間のなかにある。 あの人と座った隅の席。 氷の溶ける音と […]

「不平等という名の平等」

──音無 Fade そうだな、コーヒーを片手に考えてみると、 この世界はやっぱり、不平等だと思う。 生まれた場所も、言葉も、 背負ってきたものも、守られ方も。 誰かにとっての一年が、 誰かにとっては、一瞬にすらならないことがある。 時間でさえ、平等には流れていない気がする。 ある午後はやけに長く、 別の日は気づけば夜になっている。 けれど、そんなふうに思いながら、 ゆっくりと冷めていくコーヒーを見 […]

熱と音のない夏

──音無 Fade 夏が近づくと、 胸の奥に、ふと切なさが満ちてくる。 どこかで落としてしまった何かを、 無意識に探しているような感覚。 かつて、夏は息苦しかった。 重たい湿度に満ちた空気、まとわりつく汗。 それでも—— 青く広がる空、眩しい光、 制服の袖をまくった学生たち、 夕日のオレンジに染まる街並み、 そして、縁日から漂う甘い匂い。 そんなすべてが、確かに私を魅了していた。 あの頃、 夏は特 […]

静かな午後の記憶

──音無 Fade 夕方の薄暗い部屋で、コーヒーを飲んでいると、 ふと、過去のことを思い出す。 特に、静かな日曜日の午後。 街の音も届かない時間帯には、 学生時代の記憶が、やけに鮮やかになる。 ――あの頃、 ランチに誘ってくれる友人たちに「用事がある」と言って断った。 本当は、ただお金がなかっただけなのに。 「興味がない」と笑ってみせたのは、 恥ずかしさをごまかす手段だった。 地方では、決して貧し […]

甘さと哀しさの、ちょうどあいだ

──音無 Fade 午後のカフェ。 光が斜めに差し込み、 テーブルの影が少しずつ伸びていく。 一人で座る人、 そっと言葉を交わすふたり、 ページをめくる音、 スプーンの触れる音。 まるで、 違う時間を生きる人々が ひとつの空間で、 静かに寄り添っているようだった。 失ったもの。 探しているもの。 言葉にしないまま、 誰かがそこに座っている。 でもきっと、 誰もがこの空気に 少しだけ心をほどかれてい […]