音を失くして

詩的短編集|音無 Fade」

誰にも届かなかった声を、ここに置いていく。

「予定表の空白だけが、正直だった」

音無Fade くだらない予定だけが、 今日もまたひとつ、埋まっていく。 それらは決まって、 「前向き」とか「価値創造」とか、 綺麗な言葉で飾られているけれど、 本当は、なくなったところで誰も困らない。 ただ、黙っていればいいのに。 「この時間が、未来を変える」なんて言うから、 余計に薄っぺらくなる。 付き合っているこっちの顔が引きつる。 相槌のリズム、表情の角度、 心ここにあらずのまま「建設的な場 […]

それでも八月は過ぎていく

音無Fade 予定がぎっしりの八月に、憧れていた。 海に行って、 祭りに行って、 誰かと夜遅くまで話して、 花火が終わっても、 なんとなく一緒にいたりして。 そんな“青春のテンプレート”みたいな夏を、 ちゃんと体験しておかないと、 一生後悔するんじゃないかって、 ずっと本気で思ってた。 でも、今年の八月は違った。 気づけば何の予定も入っていなかったし、 誰からの連絡もなかった。 自分からもしなかっ […]

「溶けかけた午後に」

「溶けかけた午後に」 コンビニの袋をぶら下げて ぬるくなった炭酸水を飲む。 舌の奥が、わずかに泡立つだけで、 何も刺激は残らない。 冷房の効きすぎたタクシーのシートが シャツの背中を濡らす。 汗か、湿気か、もう判別できない。 ただ、呼吸だけがやけに重たい。 信号待ちで隣に停まったバイクから、 焦げたマフラー音と フローラル系の柔軟剤が混ざった風が流れてくる。 その香りが、なぜか誰かの家の記憶を連れ […]

「まだ夏を嫌いになりきれない」

音無Fade 午後三時、 窓の外は相変わらずよく晴れていて、 風もなく、 空は青く、ただそこにあった。 蝉の声が、もうBGMのように耳に馴染んでいて、 「うるさい」とも思わなくなったのは、 それに疲れたのか、 それに馴れたのか、自分でもわからない。 スーパーの袋を片手に歩く帰り道、 どこかの中学校から流れてきた吹奏楽の音が ふいに足を止めさせた。 トランペットの音が割れていた。 でも、 それがかえ […]

「夏のくせに」

音無Fade 青い空が、 あまりにもよく晴れていて、 それだけで、 なぜか置いていかれたような気持ちになる。 道の向こうでは、 制服の高校生たちが、部活帰りの笑い声を響かせていた。 汗をかくことも、日焼けも、 この季節の一部としてまっすぐ受け止めている人たち。 まぶしいと思った。 でも、少しうるさくも感じた。 私はといえば、 エアコンの効いた部屋から出る気にもなれず、 コンビニで買ったアイスコーヒ […]

タクシーは、昔の自分を通り過ぎた

音無Fade 午後の予定が一つキャンセルになって、 時間がぽっかり空いた。 せっかくだから寄り道でもしようと、 思いつくままに行き先を告げた。 もうすっかり馴染みのない場所。 “あの頃”の私が毎日通っていた、駅裏のあたり。 助手席越しに、 タクシーの運転手が「この道で大丈夫ですか」と聞いた。 私は曖昧に「ええ」と頷いて、 そのまま窓の外を眺めた。 細い路地。 古びたアパート。 コンビニの横にあった […]

「朝と昼のあいだに」

音無Fade 「朝と昼のあいだに」 朝と呼ぶには、少し遅かった。 けれど昼と呼ぶには、まだ少し早すぎた。 時計は10時を少し回っていたけれど、 それがどうということはない。 ただ、世界のどこにも「いま」と名付けられていないような、 そんな時間帯だった。 誰かが慌ただしく出かけていく気配も、 窓の外を走る車の音も、もう過ぎた。 学校へ向かう子どもたちの声も聞こえなくなり、 通勤を急ぐ靴音も途絶えてい […]

「雨の杜にて」

音無Fade その日、雨は朝から降っていた。 音を立てるでもなく、叩きつけるでもなく、 ただ静かに、すべてを湿らせていくような雨だった。 傘をさすほどでもないような気がして、 それでいて傘がなければ風邪をひく、 そんな中途半端な強さだった。 神社へと向かう坂道の石段は、濡れていた。 苔むしたその滑らかさは、足元を慎重にさせる。 ふと視線を上げれば、 鳥居の先には誰もいない。 雨に濡れた木々が、 何 […]

雨を見ていた

音無Fade 昼なのに、 まるで夜のように静かだった。 雨は遠慮なく降っているのに、 この部屋には、 どこかやさしい匂いだけが届いてくる。 外に出れば、きっと煩わしい。 靴も濡れるし、 傘は風に遊ばれるし、 誰かのため息みたいな音が、背中を打つ。 でも、窓のこちら側にいる限り、 雨はただ、やわらかく。 景色をぼかし、 音をほどき、 時間の輪郭をあいまいにしてくれる。 少しの後悔と、 少しの希望を持 […]

「雨音が消えてから」

音無Fade 雨音が消えてから、 この部屋はようやく、朝を迎えた。 目覚ましも鳴らず、誰の声も届かない午前。 雨が降っているのか、それとも昨夜の湿り気が残っているだけなのか、よくわからない。 ただ、窓の外はほんの少しだけ、 滲んでいた。 コーヒーを淹れる気にもならず、 テーブルの上には昨日のカップが置き去りのままだ。 飲みかけではない。飲むのを忘れていたわけでもない。 ただ、そうする意味が見当たら […]