音無Fade
その日、雨は朝から降っていた。
音を立てるでもなく、叩きつけるでもなく、
ただ静かに、すべてを湿らせていくような雨だった。
傘をさすほどでもないような気がして、
それでいて傘がなければ風邪をひく、
そんな中途半端な強さだった。
神社へと向かう坂道の石段は、濡れていた。
苔むしたその滑らかさは、足元を慎重にさせる。
ふと視線を上げれば、
鳥居の先には誰もいない。
雨に濡れた木々が、
何かを守るように、しんと佇んでいる。
神社という場所は、
誰もいないときほど、
“誰か”がいるような気配がする。
風が、鈴を揺らした。
その音だけが、遠くから差し込んできた。
本殿の前まで行っても、手は合わせなかった。
願いごとがないのではなく、
願ってしまうと、
それが「今ここにないもの」だと気づいてしまいそうで、
怖かった。
ふと、以前誰かに言われた言葉を思い出す。
「神社ってね、お願いをする場所じゃないんだって。
本当は、決意を伝える場所なんだって。」
その言葉は、
なぜか今日の雨によく似合っていた。
雨のなかに立つと、
自分の境界が少しずつ滲んでいく。
肌も髪も、服も、冷たくなっていくのに、
心の奥だけが、熱を帯びていく。
その感覚が、妙に懐かしかった。
あの日、
言えなかったひとこと。
届かなくてよかったのかも知れない手紙。
名前を呼びかけることさえできなかった沈黙。
どれももう過ぎたはずなのに、
この場所ではまだ、すぐ隣にいるように思えた。
雨の日の神社は、
静かで、清らかで、
どこか、痛い。
でもその痛みは、
まだ名を呼ばれる前の、
優しさのようでもあった。
帰るとき、
なぜだか傘を開いた。
濡れてきたのは体じゃなくて、
言えなかった言葉のほうだったから。