──音無 Fade
夕方の薄暗い部屋で、コーヒーを飲んでいると、
ふと、過去のことを思い出す。
特に、静かな日曜日の午後。
街の音も届かない時間帯には、
学生時代の記憶が、やけに鮮やかになる。
――あの頃、
ランチに誘ってくれる友人たちに「用事がある」と言って断った。
本当は、ただお金がなかっただけなのに。
「興味がない」と笑ってみせたのは、
恥ずかしさをごまかす手段だった。
地方では、決して貧しかったわけじゃない。
むしろ恵まれていたはずだった。
でも上京して初めて知った、“本当の余裕”という世界。
ブランドのバッグ、親に買ってもらった車、
何気なく語られる海外旅行の話。
笑顔で相槌を打ちながら、
その背中を見送った後、
胸の奥に、小さな妬みが静かに渦を巻いていた。
「自分は、どうしてこんなに違うんだろう」と
夜のコンビニで買ったカップラーメンを食べながら
一人きりの部屋で何度も思った。
音楽だけが響く、冷えた空間の中で。
カレンダーを眺めながら、
「きっと、自分には何かがある」と信じようとしていた。
けれど、その思いはいつも、
湯気のようにすぐに消えていった。
–
それでも日々は過ぎた。
朝早く講義に出て、夜はアルバイト。
帰れば安いスーパーの食材で作った、
小さな食事が待っていた。
いつの間にか「興味のないふり」が、
自分を守る術になっていた。
–
窓の外を眺める。
今の自分には、余裕がある。
欲しかったものはほとんど手に入れた。
ガレージの車。
クローゼットの時計とアクセサリー。
丸くなって眠る犬と、ぬくもりのある家族。
だけど、ふと――
あの頃の自分に会ってみたいと思う時がある。
何も持たず、狭い部屋で、
悔しさと寂しさをごまかしながら、
それでも“何かになろう”としていた自分に。
きっと、あの頃の自分は今の私を見て、
「いいな」と言うだろう。
あるいは――
「でも、違うね」とも言うかもしれない。
–
夕焼けに染まる空が、
過去と現在の境界線を、優しく曖昧にする。
「本当に欲しかったものって、何だったんだろう」
ブランドでも旅行でもなく、
もしかしたらただ――
「誰かに必要とされたかった」
それだけだったのかもしれない。
–
リビングで眠る犬の姿を思い浮かべて、
少しだけ笑みがこぼれた。
「今は今で、悪くない」
そう自分に言い聞かせる。
それでも、心の片隅には、
今でもあの頃の自分がそっと座っている気がする。
–
夜が降りてくる。
部屋のランプの明かりが、過去と今をつなげていく。
車に乗り込んでエンジンをかけると、
静かな振動が身体を包む。
隣のホルダーに目をやると、
そこには、ブランドロゴの入ったカフェのカップ。
かつて“余裕の象徴”だと思っていたもの。
もしあの頃の自分がこれを見たら、
「いいな」と言うだろうか。
それとも――
「こんなのが欲しかったわけじゃない」と
笑ってしまうだろうか。
–
アクセルを踏み込む。
滑らかな加速。
その一瞬、頭をよぎったのは、
狭い部屋で飲んだ、あのインスタントコーヒーの味だった。
–
街の灯りが流れていく。
バックミラーには、
もう戻れない場所の、やさしい影。
「欲しいものは、たぶん手に入れた。
でも――」
窓の外に目をやる。
ネオンが、フロントガラスに滲んでいる。
「まだ、走り足りない。」
ハンドルを握り直す。
誰にも言わず、夜の街へ、静かに溶け込んでいった。