静かな迷路の出口で

──音無 Fade

コーヒーを片手に思う。
時間は、いつも不平等だ。

進むときはあっという間で、
止まったように感じるときほど、
何も変わらず過ぎ去っていく。

「よかったじゃないか」
――あの声が、ふと耳の奥でこだまする。

そう、あのとき誰かがそう言ってくれた気がする。
「君もようやく“普通”の生活に戻れたんだ」って。

それが祝福だったのか、慰めだったのか、今でもわからない。

私は“普通”に戻ったのだろうか。
あれほどまでに渇望していた“まともな日々”に。
それとも、ただ慣れただけなのだろうか。

コーヒーの表面に、空の光が揺れている。
静かな店内。冷めたカップ。

でも、どこかに確かに温度は残っていた。

「これまでの自分を全部捨てて、
 それでやっと普通になれた――なんて、ちょっと違和感があるんです」

そんなことを、誰かに言った記憶がある。
でも、その“誰か”の顔が、もう曖昧だ。

探していたものは、ずっと前に見つかっていたのかもしれない。
いや、ただ私が気づかなかっただけか。

あるいは、見つけたくなかったのかもしれない。

見つけてしまえば、終わってしまう気がしたから。
その“何か”を探している限り、私は何者かでいられると思っていた。

でも、そんな逃げ道も、今はもう見えなくなってきている。

昼の喫茶店で、音楽がゆるやかに流れている。
スプーンの音。カップを置く微かな響き。
それが、自分の存在を証明してくれるようで少しだけ安心する。

窓の外、街路樹の葉が色づきはじめていた。
強い日差しのわりに風が冷たい。
本来なら、この季節がいちばん好きなはずだった。

だけど今は、
好きだったはずのものにも、少し距離を感じる。

「最後まで聞いてみることにするよ」
また声が、記憶の中から浮かんでくる。

聞いてほしかった言葉。
でも誰にも話せなかった話。
だから私は今、こうして一人で思い返している。

秋の陽が、車窓のガラスを斜めに照らしていた。

もし、あの人に会う前にこの景色を見ていたら、
私はもっと違う答えを出せていただろうか。

今さら考えても仕方のないことばかりが、心の中で渦を巻く。

ドライブの途中で、車を停めた。
エンジンの音が消えると、
季節の静けさがそのまま耳に染み込んでくる。

窓を少し開けてみる。
冷たい風。乾いた匂い。

胸の奥に沈んでいた何かが、わずかに揺れた。

私は目を閉じて、静かに呼吸を整える。
それだけで少しだけ、自分を取り戻せた気がした。

「……あの話の続きは、また今度にしようか」

口に出さず、心の中でそうつぶやく。

そう、話の続きを誰かと分かち合う日は、
きっとまだ、どこかにあるはずだから。

少しずつ薄れていく季節の中、
私はありったけの笑顔で、
それでも前を向いてみることにした。

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