── 音無 Fade
強いて何か挙げるとすれば、
先日買ってきたチーズケーキがとても美味しかったことくらいだろうか。
冷蔵庫の奥にしまっておいたのに、
それを取り出すと、まるで昨日のことのように、
柔らかな甘さがそのまま残っていた。
ふと、あなたの顔を思い出した。
どこでどうしているのかなんて、
最近はもう、積極的には考えないようにしているけれど、
こうして、甘さの温度でふいに浮かんでくることがある。
–
あなたはチーズケーキがあまり好きじゃなかった。
それなのに、私が食べたいと言うと、
いつも付き合ってくれた。
「甘いのはちょっと苦手なんだよな」って笑いながら、
一口だけ。
その一口を、私は何度も思い出す。
–
ケーキの断面が、時間を切り取ったように見える。
フォークを入れた瞬間に、
過去が少しだけ、音を立ててほどけていく。
だけど、不思議と涙は出なかった。
ただ、少しだけ静かになった。
–
窓の外では、今日も何も変わらずに
午後がゆっくりと進んでいる。
カップの中のコーヒーは、
そろそろ冷めてしまう頃だ。
それでもまだ、
私はチーズケーキの最後のひと口を
しばらく見つめたままでいた。