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ショートストーリー

余の在処(よのありか)

— 音無Fade — 余白があるから、 言葉はまだ、置けると思った。 余韻が残るから、 会話の続きを感じてしまう。 余剰だったものを、 あのとき切り捨てたつもりだったのに、 いちばん残っているのは、 その余りものだった。 余計だったかもしれない。 でも、あのときの私には、あれが精一杯だった。 余波のように、 思い出のかけらが、いまも胸をかすめてくる 残余。 置いていったのではなく、 置かれてしまっ […]

記憶に溶けた毒

──音無 Fade 懐かしさは、罪に似ている。 あるいは罪か。 触れた瞬間に、もう戻れなくなる。 懐かしさは、記憶に溶けた毒。 甘くて、やさしくて、だけど決して無害ではない。 – 久しぶりに降りた、終点間近の小さな駅。 錆びた駅名標が変わらずにそこにあったことに、 少しだけ安堵してしまう自分がいた。 足元には濡れた落ち葉、 空気は冷えていて、懐かしさと後悔が入り混じる匂いがした。 通りの向こうに、 […]

音を失くして、守った言葉

──音無 Fade 音を失くして、守った言葉がある。 言ってしまえば壊れてしまいそうで、 だから私は、黙ったままうつむいた。 – 喫茶店「シルバー・ムーン」は、 都会の路地裏にひっそりと佇んでいた。 誰にも見つからないことを望むように、 少し古びたネオンを灯して。 タバコの煙とコーヒーの香りが混ざったあの店は、 かつて私が、何も語らなかった時間のなかにある。 あの人と座った隅の席。 氷の溶ける音と […]

「不平等という名の平等」

──音無 Fade そうだな、コーヒーを片手に考えてみると、 この世界はやっぱり、不平等だと思う。 生まれた場所も、言葉も、 背負ってきたものも、守られ方も。 誰かにとっての一年が、 誰かにとっては、一瞬にすらならないことがある。 時間でさえ、平等には流れていない気がする。 ある午後はやけに長く、 別の日は気づけば夜になっている。 けれど、そんなふうに思いながら、 ゆっくりと冷めていくコーヒーを見 […]

熱と音のない夏

──音無 Fade 夏が近づくと、 胸の奥に、ふと切なさが満ちてくる。 どこかで落としてしまった何かを、 無意識に探しているような感覚。 かつて、夏は息苦しかった。 重たい湿度に満ちた空気、まとわりつく汗。 それでも—— 青く広がる空、眩しい光、 制服の袖をまくった学生たち、 夕日のオレンジに染まる街並み、 そして、縁日から漂う甘い匂い。 そんなすべてが、確かに私を魅了していた。 あの頃、 夏は特 […]

静かな午後の記憶

──音無 Fade 夕方の薄暗い部屋で、コーヒーを飲んでいると、 ふと、過去のことを思い出す。 特に、静かな日曜日の午後。 街の音も届かない時間帯には、 学生時代の記憶が、やけに鮮やかになる。 ――あの頃、 ランチに誘ってくれる友人たちに「用事がある」と言って断った。 本当は、ただお金がなかっただけなのに。 「興味がない」と笑ってみせたのは、 恥ずかしさをごまかす手段だった。 地方では、決して貧し […]

甘さと哀しさの、ちょうどあいだ

──音無 Fade 午後のカフェ。 光が斜めに差し込み、 テーブルの影が少しずつ伸びていく。 一人で座る人、 そっと言葉を交わすふたり、 ページをめくる音、 スプーンの触れる音。 まるで、 違う時間を生きる人々が ひとつの空間で、 静かに寄り添っているようだった。 失ったもの。 探しているもの。 言葉にしないまま、 誰かがそこに座っている。 でもきっと、 誰もがこの空気に 少しだけ心をほどかれてい […]

【ブログ小説】 成功の余白に

──音無 Fade もしかしたらこれが、 最後の夜になるかもしれない。 そんなふうに思ったら、 静けさが少しだけやさしくなった。 机の上には誰にも見せなかった資料、 使いかけのペン、 そして読みかけのまま閉じた本。 今日も“何か”を成し遂げたはずだった。 通知の光は消え、誰もいない部屋に “成功”の余韻だけが淡く残っている。 – 欲しくなかったんじゃない。 ただ、手に入らなかっただけ。 嫌いだった […]

限りなく冬に近い秋に

──音無 Fade 一杯のコーヒーを淹れる姿は、 まるで何かを祈るようだった。 あるいは、ささやかな願い事。 湯気の向こう、何気なく窓の外を見る。 銀杏の葉がひとつ、静かに落ちていった。 限りなく冬に近い秋が、 昔からいちばん好きだった。 誰かを失くしたあとでもなく、 何かが始まる手前でもない。 すべてが、そっと止まっている感じがして。 – 店の名前はなかった。 扉の前に立っても、ここが店なのかど […]

棲みつくもの

──音無 Fade いつもなら、ベランダでコーヒーを片手に 遠くのビルをぼんやり眺めている時間だった。 でもその朝は、雨が静かに降っていた。 トーストをかじりながら新聞をめくっていると、 携帯が震えた。 無意識に取る。 「……はい」 『あ、もしもし』 少しだけ懐かしい声だった。 けれど、懐かしさは罪に似ている。 『昨日のこと、なんだけどさ――』 彼女は笑っていた。あの頃と変わらない調子で。 ――― […]