タクシーは、昔の自分を通り過ぎた

音無Fade

午後の予定が一つキャンセルになって、
時間がぽっかり空いた。

せっかくだから寄り道でもしようと、
思いつくままに行き先を告げた。
もうすっかり馴染みのない場所。
“あの頃”の私が毎日通っていた、駅裏のあたり。

助手席越しに、
タクシーの運転手が「この道で大丈夫ですか」と聞いた。
私は曖昧に「ええ」と頷いて、
そのまま窓の外を眺めた。

細い路地。
古びたアパート。
コンビニの横にあった、たばこの自販機はもうなくなっていた。

でも、空気の匂いだけは、
なぜか変わっていなかった。

思い出したのは、予備校帰りの自分だ。
あの頃、私はあまり喋らなかった。
誰かと親しくなるのが怖かったし、
それより何より、自分の機嫌のとり方さえ知らなかった。

お金もなかったし、
彼女も、いなかった。
将来がある、なんて言葉にも
全然実感なんてなかった。

それでも、
誰にもバレないように焦って、
誰にも見られないように泣いたりして。
あの頃の私は、あの頃なりに、
毎日まじめに、必死だった。

今の私は、
名前のある仕事をしていて、
少しは頼られるようになって、
振り返れば、なんとかここまで来たようにも思う。

だけど、
あの時の私が乗っていた電車の時間や、
カップ麺にお湯を注ぐ3分間の長さだけは、
いまだに忘れられないままだ。

信号待ちで止まったタクシーの窓から、
当時の自分がよく立ち寄っていた店の前を見た。

降りようかとも思った。
でも結局、ドアは開けなかった。

もう、戻る必要はない。
でも、
ただ通り過ぎるには、
ちょっとだけ胸に重たかっただけだ。

運転手がミラー越しにこちらを見た。
私は静かに、前を向きなおした。

「このまま、真っすぐでお願いします」

たぶん私はいま、
過去じゃなくて、未来に向かってるんだと思う。
それが少し、寂しくて、
ちょっとだけ、誇らしかった。

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