記憶に溶けた毒

──音無 Fade

懐かしさは、罪に似ている。
あるいは罪か。

触れた瞬間に、もう戻れなくなる。
懐かしさは、記憶に溶けた毒。
甘くて、やさしくて、だけど決して無害ではない。

久しぶりに降りた、終点間近の小さな駅。
錆びた駅名標が変わらずにそこにあったことに、
少しだけ安堵してしまう自分がいた。

足元には濡れた落ち葉、
空気は冷えていて、懐かしさと後悔が入り混じる匂いがした。

通りの向こうに、まだ灯りがついているのが見える。
あの喫茶店――「オルフェ」

もう閉店しているはずだと思っていたのに、
扉はゆっくりと開いた。

店内のレイアウトは、
あの頃とまったく変わっていなかった。

そして、
カウンターの奥にいたのは、間違いなく彼女だった。

灯子(とうこ)。

彼女は僕に気づいても、何も言わなかった。
ただ、棚からカップを一つ取り出し、
コトリと音を立てて置いた。

言葉はなくても、
あの頃の空気だけが、ゆっくりと戻ってくる。

「ここ、まだやってたんだな」

僕の声は、少しだけ震えていたかもしれない。

灯子は笑った。
そして言った。

「やめる理由も、続ける理由も、同じくらい曖昧だったのよ。
 あなただけが、はっきりしてた」

僕たちは一度、
触れてはいけないものに触れてしまった。

恋ではなかった。
愛でもなかった。
ただ、日常の綻びの中にあった、一瞬の逃げ場。

あれは過ちだったのか。
それとも、必要な毒だったのか。

「この味、変わらないね」
「変えなかったのよ。…誰かが、また飲みに来る気がして」

その夜、僕は駅には戻らなかった。

店を出て、二人で歩いた。
名前のない交差点。
風の音だけがしていた。

僕は思った。
この記憶はきっと、
またいつか自分を苦しめるだろう。

それでも。
それでもいまは、
この罪のような懐かしさに、
少しだけ甘えていたかった。

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