[ブログ小説]天使と悪魔

いつもならベランダでコーヒーを片手に遠くのビルを眺めているこの時間。
その日は朝から雨が降っていた。
いつものように新聞を読みながらトーストを食べていると、携帯が鳴る。
「はい」
『あ、もしもし』
電話の向こうの声には聞き覚えがあった。
「……ああ、どうも」
『昨日のことなんだけどさー』
「なんですか?」
『ほら、あの後大丈夫だった?』
「えっと……」
『あたしさぁ、ちょっと酔ってたみたいであんまりよく憶えてないんだよねー。なんか変なこと言ってなかったかな? とか思ってさ』
「いえ別に何も」
『そう? それならいいけど』
それからしばらく世間話をして通話を終える。
「……ふぅ」
息をつく。
思い出すのは彼女の言葉。
―――あたし、好きな人がいるんだよねぇ。
それは多分、僕に向けられたものじゃないだろうけれど。
それでも僕は少しだけ嬉しかったのだ。
彼女が恋をしているという事実を知ってしまったことが。
だからきっとこれは報いなのかもしれない。

僕のことを好きだと言ってくれた女の子のことをないがしろにして。
そんな資格なんて無いはずなのに。
――だって、あなたが好きなんですもの。
僕はまた別の人を好きになってしまった。
最低だ。
でも……
どうしてこんなにも苦しいのか。
それがわからないほど、子供ではなかった。
いつもと同じ毎日。仕事に特別不満はない。
昼休みになると僕は屋上へ向かった。
そこには誰もいないはずだった。
だけど今日に限って彼女はそこにいた。
ベンチに座って本を読んでいる。
僕は声をかけるべきかどうか迷った挙句、黙って隣に座ることにした。
彼女はちらとこちらを一別しただけで特に何も言わなかった。
そのまま沈黙が流れる。
先に口を開いたのは彼女だった。
栞を挟んで本を閉じて脇に置く。
そして言った。
まるで独り言のように。
あるいは誰かに向けて話しかけるように。
――知ってる? 人の心の中には天使と悪魔がいるのよ。
どちらも自分のことしか考えていない。
片方は愛を育みたいと願い。
もう片方は自分の快楽を求める。
人は誰しも天使であり悪魔でもある。
だからどちらか一方を選ぶ必要は無い。
両方を受け入れればいい。
ただし――
その選択によって後悔しないという覚悟があるならば。

彼女はそれだけ言うと立ち上がり去って行った。
僕はその後ろ姿をただ見つめていた。

あれから数日経ったある日のことだった。
僕はいつも通り会社に向かうために駅に向かって歩いていた。
その時、前方から歩いてくる女性を見て心臓が大きく跳ね上がった。
――なんで……!? どうして彼女がここにいるんだろう。
まさか同じ電車に乗ってきたわけじゃあるまいし。
いやそれよりも問題は僕の方だ。
顔を合わせた瞬間に逃げ出したくなる衝動を抑えることができなかった。
しかし、すれ違う直前になって彼女に腕を掴まれた。
振り向く。
目が合う。
彼女は笑っていた。
以前と同じように優しく微笑んでいた。
それから何事もなかったかのように歩き出す。
僕は戸惑いながらも後に続いた。
どこへ行くつもりなのかと思ったら、結局着いた先は駅のホームだった。
ちょうど電車が来るところだったので二人並んで乗車する。
扉が閉まる寸前に駆け込んできたサラリーマン風の男がいた。
彼は僕たちの姿を見るとギョッとした顔をしていた。
無理もない。
僕たちは今まさに密着しているからだ。
背中には彼女の体温を感じる。
香水だろうか。微かに甘い匂いが鼻腔をくすぐる。
心臓が激しく脈打っているのを感じた。
彼女は相変わらず何も喋らない。
ただじっとしているだけだ。
僕も何を話せばいいかわからず、口を開かなかった。
やがて目的の駅に着いたところで、どちらともなしに降りる。
改札口を出るとすぐに交差点があり、そこを渡ると大通りに出る。
横断歩道の前で信号待ちをしている間も僕らは無言のまま立ち尽くしていた。
横目で彼女の表情を確認する。
やはりどこか楽しげな様子に見える。……いったいどういうつもりで……
そうこう考えているうちに信号が青に変わる。
周囲の人々が一斉に動き出した。
僕たちもそれに倣うように歩き始める。
それからしばらく歩いた後、彼女が突然足を止めた。
どうしたのかと思って振り返ると、彼女が僕を見上げていることに気づく。
何か言いたいことがあるのかな、と思い待っていると、不意に彼女が手を伸ばしてきた。
思わず身を固くしてしまう。
だが、予想に反して彼女の手が触れたのは僕の頬だった。
指先がそっと撫でられる感触が伝わってくる。
それから、ふわりと柔らかいものが押し当てられた。
それが彼女の唇だと理解するのにそう時間はかからなかった。
ほんの数秒のことだ。だけど僕にとっては永遠に続くんじゃないかと思うくらい長い時間だった。
ようやく解放された時には、僕の頭は真っ白になっていた。
呆然としたまま彼女を見る。
すると、彼女は悪戯っぽく笑って言った。
――キス、しちゃったね。
それはまるで天使のような最高の笑顔の悪魔だった。
――ねぇ、知ってる? 人の心の中には天使と悪魔がいるのよ。
あたしが好きなのはあなたなの。
あなたが好きなのが私じゃないのなら。
私はあなたの心に棲みつくわ。
だって、あなたが好きなんですもの。

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