[ブログ小説] コーヒーを片手に

 コーヒーを片手に思うこと。それは不平等な時間の流れ。
「でも、まあ、よかったじゃないか」と彼は言った。「これで、君も少しはまともになったわけだ。やっと、普通の生活ってものができるんだからね」
「そうですねえ……」と私は呟いた。「でも、なんだか実感が湧かないんですよ。本当に僕は普通になったんでしょうか?」
「さあ、どうだろうな。自分で確かめるしかないんじゃないか? 僕には何とも言えないよ。ただ、一つ言えることは、君にとっていいことだと思うってことだ。つまり、君の言うところの『まとも』ってやつが戻ってきたんだよ」
「そうなんですかね……。でも、なんだか変な感じですよ。自分が今までやってきたことを全部捨ててしまって、それで、今更『普通になれました』なんて言われてもねえ……。正直言って、まだピンときませんよ」
「そりゃそうだろ。すぐに受け入れられるはずがないさ。それに、これは新しいスタートでもあるんだ。これから少しずつ慣れていけばいいんだよ」
「そうかもしれないけど……」と私は言った。そして、カップの中のコーヒーを見つめた。「でも、やっぱり何かが違うような気がするんですよ」
「違う?」と彼は聞き返した。
「ええ。うまく説明できないんだけど、これまでの僕の人生っていうのは、常に何かを探し求めていたような気がするんです。それが何なのかよく分からないんだけど……とにかく、どこかで探していたものが見つかったというか、見つけられたというか……」
「それは良かったじゃないか」と彼は笑った。「君はずっとそれを探していたんだろう? そして、その答えを見つけた。だから、もう探しものはなくなったってわけだ」
「そういう意味じゃないんですよ」と私は首を振った。「確かに、ずっと前から僕はそれを探してたんでしょう。でも、結局見つからなかったんです。いや、本当は見つかっていたのかもしれないけれど、僕自身が気づいてなかっただけなんでしょうね。それが何だったのか今でも分からないけど、とにかく僕はそれを見つけようとしていたんです。そして、やっと見つかったと思ったら、また別のものが見つかるんですよ。それが延々と続いていくんです。まるで終わりのない迷路みたいにね……」
「なかなか面白い話だけど、ちょっと飛躍してるような気がするな。君が言いたいことが僕には全然理解できないよ」
「うん、分かってます。きっと今のあなたなら、そんな話は信じないんでしょうね」
「ああ。馬鹿げてると思うよ。そもそも、どうして君がそれを信じられるのか不思議だよ」
「僕だって最初は信じられませんでしたよ。でも、今は違います。多分、この先も変わらないと思います。僕は、あの不思議な夢を信じているから……」
「そうか……」と彼は溜息をついた。「じゃあ、仕方ないな。信じるかどうかは別として、とりあえず最後まで聞いてみることにしようか」
それから私たちは黙り込んだまま、しばらくコーヒーを飲んでいた。店の中には音楽が流れていて、客たちの話し声や食器の音が入り混じって聞こえてきた。私は窓の外を見ながら、ぼんやりと考えた。なぜ自分はこんなにも落ち着いているのだろう。もし、ここに来る前に彼のアパートを訪ねていたとしたら、どんな気持ちになっていただろうか。やはり驚き慌てふためき、もっと混乱したに違いない。しかし、現実は逆である。こうして彼と喫茶店に入り、向かい合って座っている。そして、他愛もない話をしているのだ。それは、まさに私が望んでいたことであるはずだった。少なくとも昨日まではそう思っていたはずだ。ところが、いざそうなってみると、なぜか不安を感じてしまう。何か大事なものをなくしてしまったような喪失感を覚えずにはいられないのである。もちろん、それが単なる錯覚であることはよく分かっていた。しかし、どうしても落ち着かない気分になるのだ。
やがてウエイトレスがやって来て、「ご注文は以上でよろしいですか?」と言った。私は曖昧に微笑みながら肯き、伝票を持って立ち上がった。そして、レジで会計をして外に出た。彼が後からついてきて、一緒に車に乗り込むと、車は静かに走り出した。
「ねえ、今日はこれからの予定はあるんですか?」と私は尋ねた。
「特に決めてないけど……」と彼は言った。「どこか行きたいところでもあるのかい?」
「別に……」と私は言った。「ただ、少しドライブしたいと思って……」
「そうか……」と彼は呟くように言った。そして、しばらくの間ハンドルを握ったままだった。私は黙ったまま横顔を見つめていたが、彼は前を向いたまま何も言わなかった。私はシートに深く座り直し、膝の上で両手を組んだ。フロントガラスの向こうでは、秋の陽射しを受けて街路樹の葉が輝いていた。道行く人々の姿や車の走行音が、まるで映画のワンシーンのように次々と流れていく。私は目を閉じて、それらの音に集中した。すると、自分の心臓の鼓動までもが聞こえるような気がしてきた。その規則正しいリズムを聞いているうちに、私は次第に心が落ち着くのを感じた。
「大丈夫か?」と彼は言った。
「えっ……」と私は目を開いた。
「なんだかさっきから様子が変だから……」と彼は言った。
「いえ……」と私は首を振った。「何でもありません」
「そうかな……」と彼は言った。「さっきの話だけど、やっぱり信じられないな」
「そうでしょうね」と私は苦笑しながら言った。
その続きは今度ね。
トーンダウンいていく街路樹を眺めながら今度はありったけの笑顔で言った。

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