──音無 Fade
強い日差しのわりに、風が冷たかった。
本来は、いちばん好きな季節だ。
お気に入りのアウターの出番は、もうすぐかもしれない。
空気が澄んできているのが、肌でわかる。
そういえば、最近は日が暮れるのも早くなった。
そんな空気感が、たまらなく好きだ。
–
人には、ふたつのタイプがあるらしい。
太陽の光で落ち着く人と、月の光で落ち着く人。
私は、間違いなく後者だと思っている。
–
いつものように、自転車で通りすぎた公園。
葉っぱがゆっくりと、色を変えはじめていた。
イヤホンから流れる音が、
おかげさまで周囲との境界をつくってくれている。
誰にも触れられずにいられるその時間が、
少しだけ、救いだった。
–
自転車を止めて、鍵をかける。
そして、アーケード街を歩きはじめる。
あと少しすれば、
この通りもクリスマスムードに塗り替えられる。
飾りと音楽と、それを見上げる人の視線。
左手に見える、地下へと続く階段。
そこを降りた先にあったのが、いつもの喫茶店だった。
–
早く着いた日は、ウィンナーコーヒーを頼むのが、
ちょっとした贅沢だった。
アメリカン、ホットケーキ、ミックスジュース、ナポリタン。
どれも少しだけ甘くて、少しだけ懐かしかった。
–
入口の印象よりずっと広い店内。
レトロな空間が、静かにひろがっていた。
私は少しだけ、イヤホンの音を下げた。
–
……その喫茶店は、もうない。
–
もし今もあの店があったなら。
コーヒーの味を、
きっと今より少しは分かるようになって、
何気なく通っていたかもしれない。
ノートパソコンを開いて、仕事をしていたかもしれない。
打ち合わせの約束をしていたかもしれない。
あるいは、ただぼんやりと座っていたかもしれない。
–
車内の音量を少し下げる。
目の前には、公園の風景。
葉っぱの色は、さっきよりもまた深くなっていた。
–
そういえば、もう自転車は手元にない。
あの鍵も、たぶんどこかにしまいっぱなしのまま。
今の私は、近くの駐車場を探している。
–
季節は、静かに進んでいく。
過ぎた風景だけが、まだそこにあるような気がして。
そして私は今日も、
何かが始まりそうで始まらないこの空気を、
少しだけ名残惜しむように、吸い込んでいる。