思い出さないように覚えている

──音無 Fade

思い出さないように覚えている。
いつからだろう、春が嫌いになったのは。
日に日に暖かくなっていく日々が、
どこか無防備で、耐え難くなってしまった。

どうせ、このあと酷暑がやってくる。
だったら最初から、寒いままでいてくれたほうがいい。

春は、予兆の季節だ。
変化の足音だけが遠くから聞こえてきて、
そのくせ何もまだ起きていない。
だから一番、心がざわつく。

別れも、はじまりも、
失くしたことさえ、
全部が“これから”みたいな顔をして近づいてくる。

あの人と最後に話したのも、春だった。

沈黙が多かった日。
飲みかけのコーヒー。
どちらからともなく席を立って、
「またね」と言って、それきり。

あれが終わりだったと、気づいていたのに。

春が嫌いになったのは、
その日からだったかもしれない。

風がやけに甘くて、
街の色が淡すぎて、
何もかもが“優しすぎて嘘みたい”に感じられた。

それでも毎年、春はやってくる。

コンビニに桜味のラテが並ぶ頃、
私はイヤホンの音量を少しだけ上げる。

通勤路の川沿いに、今年も花が咲いている。
見ないようにしても、
視界の隅でちゃんと咲いている。

思い出さないように覚えている。
それでも忘れられないものが、
たしかにある。

春は、それを揺り起こす。
無遠慮に、静かに、何気なく。
そして――、残酷に。

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