コーヒーの思い出エピソード 「オ・レ・グラッセ 」      

 国道246沿いの細い道、看板を目印に地下に続くほの暗い階段を下りていくと、カフェのガラス扉の向こうに白い漆喰の壁が見える。中に滑り込むと、マスターはすでにネルドリップで珈琲を落とし終えて味見をしているところだった。店内に漂う珈琲の香りは、通称「5番」フレンチローストブレンドだ。

マスターに挨拶をして急いでエプロンを身につけると私は掃除をはじめた。店に音楽が流れる。最近はサティが続いていたが、今日のマスターはバッハの気分らしい。私が掃除道具を片づけると同時に常連の女性客が入ってきた。慣れたしぐさで本棚から新聞を手に取るとお決まりのテーブル席に座った。マスターは注文を待たずに一人分の珈琲をあたためている。
「いらっしゃいませ。ご注文は…」
「ブレンド」
女性はいつもどおりの注文をする。マスターに「5番」と告げる頃には、ほぼ珈琲は出来上がっていた。

そこに、常連の社長夫人が来てカウンターに座った。
「今日はオ・レ・グラッセにしようかな。」
彼女は普段、胃が悪いからとアメリカン以外は頼まない。
「珍しいですね。何かありましたか。」
マスターが軽く尋ねる。
「まあね…。娘の中学が決まったのよ。」
「それは、おめでとうございます。」
普段は愚痴が多い彼女も娘が名門中学に合格したおかげで、今日は晴れやかだ。マスターは程よい距離感で話しを聞きながら、オ・レ・グラッセを作り始めた。
シャンパングラスにそそがれたミルクと珈琲の二層のグラデーションは絶妙な配分で、とても美しい。冷えたコクのあるミルクと濃い珈琲で作られた大人ためのアイス・オレは、メニューに写真がないためか、あまり注文されず残念だ。
夫人の前にオ・レ・グラッセが置かれた。
「きれいね。若い子なら、よろこんで写真を撮るわね。」

開店と同時に来た常連の女性は仕事に行くのだろう。新聞を棚に戻し、会計を済ませると足早に去っていく。
「ありがとうございました。」
後ろ姿を見送りながら、(いってらっしゃい。)とつぶやく。
カフェに1人で訪れるお客様は心の疲れを癒し、自分だけの時間を愉しむために珈琲を飲むのだろう。だから、こちらから声をかけることはしない。誰にも干渉されない束の間の時間を壊さないように…。

女性と入れ替わりに男性客が入ってきた。初めて店に来たらしく、入口で案内を待っている。
「お好きな席にお座りください。」
彼は、小部屋のようになっているすみっこの席を選んで落ち着いた。
「おまたせしました。」
注文の珈琲をテーブルにそっと置き、私は心の中でささやく。
(おいしい珈琲をどうぞ。ゆっくり珈琲の時間をお愉しみください。)

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